脊髄損傷シリーズ連載を終えて

第1回から第4回まで、私は「防御」「再学習」「再生」「拡張」という四つの時間を辿った。手術室の緊張、病室の静けさ、リハビリの汗、研究という祈り、そしてAIとともに整う日常。そこに通っていたのは、一つの細い糸だった。あいだで生きる、という感覚である。
雪下 岳彦 2025.12.05
誰でも

Ⅰ 四つの時間をつなぐ細い糸

急性期の六時間を越え、長いリハビリの時間に入ると、世界は二分法の外側に広がっていく。

治る/治らない、できる/できない、医療/日常――そのどれもが、はっきりと分かれきらない。

私が確かめたかったのは、分けることではなく、つなぐことだった。

第1回で描いた「圧を逃がす」という防御は、絶望を遅らせるためではない。次の学びに橋をかけるためだ。

第2回のリハビリは、動作を取り戻す訓練であると同時に、意志の教育でもある。

第3回の再生医療は、回路を再びつなぐ試みであり、

第4回で書いたAIは、身体の外側にもうひとつの神経を描き足す営みだった。

四つの時間は一直線ではない。

螺旋のように折り返し、互いを支え、更新し合う。

その螺旋の中心に、あいだという空間がある。

Ⅱ あいだは、葛藤ではなく呼吸

「あいだ」と聞くと、どっちつかずの曖昧さを思い浮かべるかもしれない。

けれど、私にとってのあいだは呼吸だ。

吐いて吸う、その往復のリズムの中で、私は世界と再びつながる。

具体的に言おう。

講義室では、私は教える立場にいながら、同時に学び手でもある。

学生の反応に合わせて話を組み替えるとき、知識は双方向に流れ、伝える/受け取るのあいだに新しい理解が生まれる。

リハビリ室では、私は患者であり、研究者でもあった。

セラピストが「今日は身体の使い方がうまくなったね」と気づかせてくれた日のことを忘れない。

小さな変化が、他者のまなざしによって可視化される。

そこには、自分/他者のあいだを渡る視線の橋が架かっている。

受傷直後、主治医は言った。

「雪下にしかできないことがある」

その言葉が、どんな治療よりも強く私を支えた。

医学的な処置の外側で、人の意志を支える言葉がある。

それもまた、生命を動かす呼吸の一部だ。

Ⅲ もう一度、世界を学ぶ

生き直すとは、元に戻ることではない。

世界を学び直すことだ。

歩く、話す、食べる、書く。

あたりまえと思っていた動作は、一度失ってみると、どれも驚くほど高度な「協働」だとわかる。

神経/筋肉、意志/重力、自分/環境、無数の要素が絡み合ってようやく成り立つ。

一時期は呼吸すら自力ではできなかった。

それでも、支えられながら少しずつ、身体は世界との接点を取り戻していった。

私は、口にくわえた棒でキーを押し、一文字ずつ文章を書いてきた。

時間はかかる。けれど、その遅さの中で、言葉は熟し、意思は輪郭を得る。

やがてAIがそこに入り、句読点を整え、段落を揃え、私の意図を読み、支え、押し返す相棒になった。

AIは魔法ではない。だが、応答のパートナーだ。

私は任せ、選び、修正し、また任せる。

この往復は、神経のシナプスが可塑性を獲得するときの反復にどこか似ている。

任せる/選ぶのあいだに、私の自律が宿る。

Ⅳ つながりを紡ぐ場所

そして、私はもうひとつ、世界を学び直す場をつくった。

AIとの協働が個人の身体を拡張するなら、オンラインのコミュニティは、その拡張を社会へと開いていく。

2011年、Facebook上に脊髄損傷に関わる人たちが集まるグループ――「脊損茶屋」を立ち上げた。

その特徴は、当事者だけでなく、家族や支援者、医療従事者、福祉機器メーカーなど、脊髄損傷に関わりを持つすべての人が参加できることだ。

小さく始まったこの場所は、いまでは参加者が1000人に迫るまでに育った。

脊髄損傷に関する情報は、驚くほど限られている。

専門的なリハビリ病院に通えた人はネットワークを得られるが、日本にはそうした施設が多くない。

だからこそ、情報にアクセスできずに孤立する人や、その家族・支援者が少なくない。

「脊損茶屋」は、そうした“あいだ”に取り残されそうになる人たちが、互いに情報を届け合い、声をかけ合い、励まし合う場所として育ってきた。

オンラインの空間であっても、人は十分につながることができる。

そこには、沈黙の奥に潜む痛みと、にじむような希望がある。

Ⅴ 不公平を見つめ、希望を手放さない

医療は時間に選別される。

私の六時間にも、三十一日にも、間に合わなかった治療がある。

この不公平を前に、胸がざわつくことは今でもある。

それでも、私は希望を手放さない。

なぜなら、希望は結果ではなく態度だからだ。

結果を保証しない未来に向かって、それでも一歩を選ぶこと。

それが希望の本質だ。

希望とは、「いま・ここ」に意味を与える選び方である。

今日受傷した誰かには、私とは違う選択肢がある。

その事実を、羨望だけでなく、連帯として受け取ること。

過去を嘆きに変えず、未来への橋脚に変えること。

それが、あいだに立つ者の務めだと思う。

そして、もう一つ。この不公平の世界で、自分の意志で判断すること。

それが自立だ。

自立とは、すべてを自分で行うことではない。

誰に何を任せ、何を自分で選ぶかを考え続ける力だ。

その思考の往復が、私を「生かされる側」から「生きる側」へと押し戻してくれた。

Ⅵ あいだに還る

この連載を終えるとき、私に残ったのは大きな主張ではない。

静かな実感だ。

生きるとは、分けることではなく、結ぶこと。

治すことと支えることのあいだで、個人と社会のあいだで、身体と技術のあいだで、私たちは呼吸し、学び、選び続ける。

いのちは、いつもあいだに宿る。

だから私は今日も、そのあいだで生きる。

少しずつ、しかし確かに。

付記:この連載を読んでくださった方へ

四つの時間――防御、再学習、再生、拡張――をともに辿ってくださり、ありがとうございました。

もしあなたが医療の現場にいるなら、どうか「支えるための治療」を信じてください

もしあなたが今まさに当事者なら、どうか「あいだ」に自分の自立を見つけてください。

任せること/選ぶこと、その往復の中に、あなたの力があります。

そして、読者の皆さんへ。

社会は、「あいだ」を受け止める設計で優しくなれる。

その設計に、私たちはみんな関われる。

そう信じています。

脊髄損傷シリーズ

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