第1部 社会は誰を想定して設計されているか

「社会は、誰を想定して設計されているのか」——この問いを軸に、DEIとアクセシビリティの現在地を考える連載。スタジアム、教育、医療AI、情報設計。それぞれの現場に映し出される「想定の差」を、医師・講師としての実体験とともに読み解いていく。​​​​​​​​​​​​​​​​
雪下 岳彦 2026.03.20
誰でも

講義から生まれた問い

私は大学で、DEI(ダイバーシティ・エクイティ・インクルージョン)の講義を担当している。

講義では、多様性・公平性・包摂性が、単なる倫理ではなく、社会の設計思想として機能することを伝えてきた。

しかし、講義が終わるたびに、ある問いが頭を離れない。

「社会は、誰を想定して設計されているのか?」

この問いを、学生だけでなく、もっと広い人たちと共有したい。

そう思って、この連載を書くことにした。

きっかけは、一人の言葉だった。

「納税している障害者に、高速道路の割引は本当に必要なのか?」

社会福祉法人「太陽の家」5代目理事長・山下達夫さんは、そう問いかける (1)。

彼自身も四肢麻痺の障害があり、太陽の家で働きながら納税を続けてきた当事者だ。

山下さんの問題意識はこうだ。

自分たちは働き、税金も納めているにもかかわらず、

いつまでも「保護される側」としてだけ扱われてはいないか。

障害のある人を、一人の納税者・一人の市民として見ていない構造が、

そこに表れているのではないか。

この問いは、私が講義で投げかけてきた問いと、深いところでつながっている。

私たちは、社会を「誰」を中心に設計してきたのか。

そこに、障害のある人、マイノリティの人たちは、本当に含まれてきたのか。

アクセシビリティとは、単に「困っている人に優しくすること」ではない。

社会が誰を想定して設計されているかを問い直し、

その想定の範囲を広げていくデザインのことだ。

この連載では、講義で伝えてきたDEIの理論を、

アクセシビリティ、企業経営、AI、そして私自身の体験を通じて、

より広い読者に届けたいと思う。

***

1. 想定されていない人たち

駅の階段、病院の受付、学校のカリキュラム。

多くの制度や空間は、「健常で、歩けて、読めて、理解できる人」を前提に作られている。

しかし現実には、車いすユーザー、視覚・聴覚に障害のある人、読み書きに困難さを持つ人、

日本語が第一言語ではない人、感覚過敏の人、長時間立っていられない人

さまざまな身体や感覚、言語や文化を持つ人たちが暮らしている。

例えば、日本では国民のおよそ9.3%が何らかの障害を有しているとされている (2)。

これは決して少数ではない。

にもかかわらず、多くの社会システムは依然として「想定外」として扱っている。

アクセシビリティは、そこに光を当てるためのレンズである。

「想定の外に置かれてきた人たち」を前提に入れ直すことで、

社会そのものの設計を更新していく考え方だ。

***

2. DEI ― 多様性・公平性・包摂性という設計思想

このアクセシビリティの基盤にあるのが、DEI(Diversity, Equity, Inclusion)という概念である。

・Diversity(多様性):違いを排除せず、価値として尊重すること。

・Equity(公平性):一律ではなく、状況に応じて必要な支援や資源を配分すること。

・Inclusion(包摂性):誰もが安心して参加し、力を発揮できる環境をつくること。

DEIは、単なるスローガンではない。

社会の持続可能性を支える「設計思想」である。

多様な視点が新しいアイデアを生み出し、

包摂的な組織が人を育てる。

医療、教育、AI、まちづくり——どの領域でも、すでにDEIを抜きに語ることはできなくなりつつある。

講義では、この3つの概念を学生と共に考えてきた。

しかし、理論を学ぶだけでは不十分だ。

DEIは、現実の社会のあらゆる場面で、すでに問われている。

***

3. バリアフリーとユニバーサルデザイン

ここで、よく似て語られる二つの言葉を整理しておきたい。

・バリアフリー:すでに存在する障壁を取り除く「事後的な対応」

・ユニバーサルデザイン(UD):最初から誰にとっても使いやすく設計する「事前的な発想」

バリアフリーは、「困っている人を助ける」ための修正である。

ユニバーサルデザインは、「最初から誰も困らないようにしておこう」という設計思想である。

この違いは、講義でも必ず伝えている。

バリアフリーが「修正」だとすれば、ユニバーサルデザインは「設計」だ。

社会が成熟するほど、発想は修正から設計へと移っていく。

アクセシビリティは、その方向転換のコンパスと言える。

***

4. 医療・AIの中の「想定」と公平性

AIは過去のデータから学ぶ。

しかし、そのデータが偏っていれば、AIも同じ偏りを再現する。

白人男性中心の医療データをもとに学んだAIが、

女性やアジア人を十分に診断できない

そんな問題は、すでに現実のものとなっている。

例えば、ある皮膚がん診断AIは、白人の皮膚データで訓練されたため、

黒人やアジア人の皮膚がんを正確に検出できなかった。

これは技術の問題ではなく、「誰のデータで学習したか」という設計の問題である (3)。

ここで見落とされがちなのが、「データの不在も差別の一形態である」ということだ。

希少疾患、性的マイノリティ、障害のある人たち。

そもそも「記録されていない」人たちは、統計上も社会上も「見えない存在」とされてしまう。

さらに重要なのは、

「誰がデータやアルゴリズムを設計しているのか」という問いである。

データを作る側、モデルを設計する側の多様性が欠けていれば、

「正常値」や「標準像」といった概念そのものが歪んでしまう。

公平性とは、単に統計の誤差を小さくすることではない。

「誰が世界を定義しているのか」を問い直すことから始まる。

***

5. スタジアムという社会の縮図

社会が誰を想定しているかは、スタジアムを見るとよくわかる。

アメリカ・サンディエゴのペトコ・パークでは、

観客席全体の約3.8%が車いす席だと言われている。

バックネット裏から外野席まで、さまざまなエリアに車いす席が散りばめられ、

「どこで見るか」を選べる設計になっている。

一方、日本のプロ野球球場で車いす席の割合は、概ね0.03〜0.45%にとどまる。

多くは外野の一角や通路の端に集められ、価格帯や視界の選択肢も限られている。

この数字の差は、単なる施設整備の問題ではない。

それは「誰が観客として想定されているか」という、社会の姿勢の違いそのものだ。

スタジアムは、アクセシビリティという言葉の「社会的な鏡」である。

私自身、頚髄損傷で車いす生活になってから、

この「想定の差」を身をもって感じるようになった。

スポーツ庁参与やチームドクターとして、いくつかの競技場を訪れたが、

そのたびに「この場所は、誰を観客として想定しているのか」を考えざるを得ない。

***

6. 教育におけるアクセシビリティ

教育もまた、社会の前提が顕在化する場所だ。

障害のある大学生の割合は、日本では約1.7%とされる一方 (4)、

アメリカではおよそ20%が何らかの障害を申告していると報告されている (5)。

これは、能力の差ではない。

「想定されているかどうか」の差である。

アメリカでは、ADAに基づき、

試験時間の延長、ノートテイクや音声認識による文字起こし、

オンライン授業における字幕・手話通訳といった支援が制度として位置づけられている。

一方、日本では「善意」や「個別配慮」に依存する場面が多く、

同じ能力を持つ学生でも、通う大学によって学ぶ権利の実質が大きく変わってしまう。

以前、ある方からこんな話を聞いたことがある。

若い頃に脊髄損傷となり、志していた学びの道への復帰が認められず、

別の道へ進まざるを得なかったという。

もしその人が、今の時代に学んでいたなら、

合理的配慮やICTの進展によって、別の選択肢が開かれていた可能性もある。

しかし現実には、その時代の制度と設計が、その人の進路を決めてしまった個人の努力や意思の問題ではない。

制度や環境が、その人の可能性の幅を規定してしまう現実がある。

また一方で、私と同じような脊髄損傷の方が、

アメリカで医学部に進学し、医師になったという話も聞いた。

同じ状況でも、どの社会に身を置くかによって、開かれる道は大きく変わる。

講義を担当する立場として、この現実は重い。

教室に来られない学生、資料が読めない学生、音声情報が聞き取れない学生——

彼らの学ぶ権利を、どこまで保障できているだろうか。

教育のアクセシビリティは、

その社会が、誰の成長をどこまで本気で支えようとしているかを映し出す指標である。

***

7. 情報にもアクセシビリティを

アクセシビリティは、空間や施設だけの話ではない。

情報そのものにもバリアは存在する。

物理的なバリアフリーは進んだが、情報のバリアフリーは大きく遅れている。

多くの自治体のウェブサイトは、スクリーンリーダー対応や代替テキストが不十分で、

視覚障害のある人がオンラインで行政手続きをしようとしても、

結局「窓口に行くしかない」という状況が残っている。

これは単なる不便ではなく、行政サービスへのアクセス権の問題である。

UDフォントは、視認性と可読性を高めるために設計された書体である。

カラーユニバーサルデザインは、色覚特性の違いを前提に設計される。

文字と色、レイアウトと構造。

それらは、情報の公平性を支えるインフラである。

***

8. 合理的配慮 ― 法から文化へ

2024年6月、日本では民間事業者にも「合理的配慮の提供」が義務化された。

これは大きな一歩だが、法が整ったからといって、すぐに心や文化が変わるわけではない。

「どこまで支援すべきか」

「どこまで求めてよいのか」。

その迷いの裏側には、

「迷惑をかけたくない」「申し訳ない」という、日本社会特有の遠慮の文化がある。

そのため、正当な配慮の要望ですら、本人が口にしづらいことがある。

しかし、配慮を求めることはわがままではない。

合理的配慮とは、本来、障害のある人と組織との「建設的な対話のプロセス」である。

法の条文以上に大切なのは、

対話が当たり前に行われる関係性と、

「困りごとを言ってもいい」と思える空気だ。

ただし、合理的配慮には構造的な限界もある。

それは「声を上げられる人」しか救えないという限界だ。

では、声を上げられない人、声を上げる前に諦めてしまう人は、どうすればいいのか?

この問いは、第3部で改めて考えたい。

***

結び ― 「想定の範囲」を広げるという成熟

アクセシビリティとは、福祉の専門用語ではない。

社会そのものの設計思想である。

DEI、ユニバーサルデザイン、UDフォント、CUD、合理的配慮。

それぞれは別分野の言葉に見えて、

根底ではすべて「誰も取り残さない」という一本の思想でつながっている。

誰もが安心してアクセスできる社会は、

誰もが力を発揮できる社会でもある。

正解のない時代に、

「やさしさをどう設計するか」。

その問いを持ち続けることこそが、

未来への最大の合理的配慮なのだと思う。

では、なぜ今、アクセシビリティがこれほど重要になっているのか。

それは、単なる倫理の問題ではなく、ビジネスと社会の「生存戦略」になりつつあるからだ。

次の第2部では、世界10億人の市場と、企業競争力との関係を見ていきたい。

***

参考文献

1.JBpress(2025年11月16日)

山下達夫「納税している障害者に高速道路割引は必要か」

2.内閣府.令和7年版障害者白書(参考資料1 障害者の状況)

3.Daneshjou R, Vodrahalli K, Novoa RA, et al.

Disparities in dermatology AI performance on a diverse, curated clinical image set.

Science Advances. 2022;8(32):eabq6147.

4.独立行政法人日本学生支援機構(JASSO)

令和6年度(2024年度)障害のある学生の修学支援に関する実態調査結果

5.National Center for Education Statistics (NCES)

Students with disabilities

***

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