五十の手習い

五十歳で始めたネット麻雀。手が不自由でも、タブレットなら一人で打てる。三年打ち続けて見えてきたのは、決断の難しさだった。思い通りにならない中で、どう選ぶか。医師として、車いすで生活する者として。不完全な情報の中で選択を重ねてきた人生と、麻雀は重なっていく。決断と向き合うための稽古として。
雪下 岳彦 2026.02.06
誰でも

麻雀は高校時代に少しだけやっていた。

勝ち負けよりも、場の空気や牌の感触のほうが記憶に残っている。

部室の片隅で、意味も分からず牌を並べていた時間だ。

深入りすることはなかった。

五十歳になって、ネット麻雀を始めた。

きっかけは、ごく現実的な理由だった。

私は手が不自由だが、タブレットをタップすれば一人で打てる。

牌を握れなくてもいい。

誰かに頼らなくていい。

遠慮もしなくていい。

自分の判断だけで進められる。

その「自分でできる」という感覚が、思っていた以上にうれしかった。

できることは、少なくなるより、増えるほうがいい。

たとえそれが小さなことでも、自分の力で完結する世界があるというのは、静かな支えになる。

勝つことより、続けることのほうが自然だった。

気づけば、麻雀は生活の中に溶け込んでいた。再開して三年目になる。

三年続けてみると、勝ち負け以上に、自分の癖が見えてくる。

どんな局面で焦るのか。

どんなときに強気になりすぎるのか。

どんな場面で守りに入りすぎるのか。

画面の向こうに相手はいる。

けれど、向き合っているのは自分だ。

どこで踏み込むか。

どこでやめるか。

何を選び、何を捨てるか。

決断することは、思っているより難しい。

手がかりは十分ではない。それでも、どこかで選ばなければならない。

そして、結果はあとからしかわからない。

あの一打が正しかったのかどうか。

攻めたのが良かったのか、退いたほうが良かったのか。

わかるのは、すべてがめくられたあとだ。

麻雀は思い通りにならない。

勝てる日は多くない。

整えたはずの形が崩れ、読みが外れ、狙いはすり抜ける。

うまくいかない時間のほうが長い。

けれど、それを理不尽とは思わない。

最初からそういう世界だと分かっているからだ。

思い通りにならないことは、敵ではない。

ただの環境だ。

環境は選べない。

配られた牌で、打ち続けるしかない。

大切なのは、完璧な答えを出すことではない。

その時点での最善を選び、引き受けることだ。

勝てる日は、きちんと取り切る。

勝てない日は、大きく崩れない。

何も起きない日は、形を崩さない。

派手な一局よりも、崩れなかった半荘のほうが、あとから効いてくる。

それは麻雀に限らない。

人生も同じだ。

人生は選択の連続でできている。

どんな決断を重ねてきたかが、その人を形づくる。

そして、決断はいつも、不完全な情報の中で行われる。

正しかったかどうかは、時間が過ぎてからしか見えない。

私は医師として働き、車いすで生活している。

身体の限界や、制度の壁や、自分では動かせない現実を、何度も目の前にしてきた。

それでも、その場で選べる一手は残っている。

完璧ではなくても、最善は選べる。

小さくても、自分の選択はできる。

腐らない。

焦らない。

自分を崩さない。

その姿勢だけは、手放さない。

麻雀を打ちながら、そんなことを確かめている。

もちろん、大きく勝つ日もたまにある。

予想外に牌が噛み合い、流れに乗る。

けれど、本当に自分を支えているのは、そうした華やかな日ではない。

うまくいかなかった日にも、やめなかったこと。

崩れかけても、もう一局を打ったこと。

その積み重ねのほうが、静かに効いている。

五十の手習いで始めた麻雀は、三年を経て、決断と向き合うための稽古になった。

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